吃音(どもり)ネタを貼ってくブログ

コミュニケーションは、話し手と聞き手、つまり「あなた」と「わたし」とで成り立っており、吃音はその障害です

吃音において「諦めながら生きていく毎日」は前向きではないのか

結局タイトルとは離れてしまったが出来ててしまったのでそのままウP。


今日はちょっと、時間を使って考える。

以前こんな事書いてた。

んな事言われてもって感じではあるが。真理かなぁ - 吃音(どもり)ネタを貼ってくブログ

人生44年、親父が死んでから気持ちを変えて、色んな世界に足突っ込めて、
20代前半までの暗澹たる気持ちは胡散霧消して「生きてて楽しい!」たけど、
やっぱ吃音はない方が良かったと思うし。


まして子供達にまで吃音が遺伝して吃音を背負わせる事になるなんて本当に申し訳ない。


今自分ができる事は自分が10代だった頃の暗澹たる気持ちを軽減させる方法を実践する事。
「一人じゃないんだ」って軽減させる事かなぁ。


最近「はてなスペース」に好きな曲、良い感じな曲をネット上で拾えたら貼って、登録してるメンバーさん達と共有して楽しんでるんだけど、
そこで「諦めながら生きていく毎日」ってフレーズが好きって書いたら、直接ではないけど「俺は嫌い」って反応がありまして。
「無気力に感じたのかなぁ」とか思った。背景を知らないと後ろ向きに、軟弱者に見えるかなぁって。


南先生は

吃音のある人が、学校や職場での合理的配慮を求めるのは「理解を」というレベルではなく、「権利」のはずです。

って呟いてるけど。

そもそも、吃音に限らないけど「障害が原因で選択肢を狭めてはならない」ってのは間違いない。


まぁ、こんなものあるんだけど。
どう明るくなれというのか?吃音持ちの高3ですが吃音について... - Yahoo!知恵袋

自分と同じ吃音持ち、又はその親家族がブログ書いてるってのも沢山発見できるんだけど
3年前かな「吃音 自殺」で検索して上位にきた方(当時ちょっと相談にのってもらいました)のを貼ると
吃音が原因で、現実に「生きることに困っている人」のことを考える(再掲載一部改編:2009年7月3日) | コミュニケーション障害「吃音(どもり)」を考える


あ~あ、吃音メンドクサイ。


家族で言うと。
下の子は今年7月から「ことばの教室」に通ってから、どもりに関する話を聞いてくるようになった。
ことばの教室での様子とか連絡手帳でくる(担任も読んでる)ので安心感はある。
上の子には「どもりは軽減する方法はあるけど治らない」と改めてと言うか強引に教えて、今は「吃音って障害を広めたい」って考えるようになった。
これも考え方なんだけど、上の子は「どもりで言葉がでないんだからしょうがない」と変な諦めが。

これを「変」って書いていいか、また難しいのだけど。


上の子のどもり具合は9段階で言うとどれ位なのだろう。軽い方から3番目?

吃音持ちだから「どうする?」で、
諦めないで何とかコミュニケートするのが自分の理想。
吃音持ちがなんとか声を出せるまで周りが待ってくれる環境を広げるのが俺の目標なのかな。
目標と言うか、子供達への贖罪、罪ほろぼしな感覚。
そして、吃音に負けない、へこたれない。自己肯定力。


自分における「暗澹たる気持ちを軽減させる方法」って将来が見えなかったからだと思う。
吃音の大人達がカッコよく見えたら理想だけど普通に、普通にしてたら多分自分も大丈夫って思わせられたら。
でもそれは勝手に身につくのではなく、
努力したほうが早く身につくよって、子供達には感じて欲しいのだけど、その考えもマズイのかな。


吃音の軽い重いがあるから吃音持ち全員には当てはまらないけど。
幸い、俺も子供達も軽い方だから受け入れて流暢性を身につければ。


「話すのもスキル」って藤井先生からの言葉なんだけど、本当にそうだよなぁと。


「個性」なんて無理やりな言い方もあるけどそれは軽度な吃音持ちが言えること。
本質ではないはず。軽度でも苦しんでるんだけどさ。


今偶然「ノエル・ギャラガー吃音持ち」って知った。
本人曰く「父親の虐待のストレスから」だとか。
「場数をこなせば大丈夫」って要は不安な気持ちを軽減できるって事だわな。
バリバラRで菊池先生は

普通の人よりは、やっぱり自分の内面が表に出やすい人って思っていただければ・・ですね。

と言ってて、なんだろなぁと思ったけど、場数ってそういう事だよね、確かに。

全然纏まらないので今はこれで終了。