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吃音(どもり)ネタを貼ってくブログ

コミュニケーションは、話し手と聞き手、つまり「あなた」と「わたし」とで成り立っており、吃音はその障害です

姿勢が癒やしを得るか?傷の舐め合いではなく

こんなの読んだです。
「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人について - シロクマの屑籠

引っかかったトコ抜粋

案外たくさんの人が、自分自身にインストールされた「正しさ」にそぐわない自分自身に葛藤を抱えている。

“「正しさ」とは確率論ではなく個人の主観的な価値観に依る”

「あなたはよく頑張った、だからもういいんだよ」ではないか。自分自身の正しさに対する赦しの言葉ではないか。

そうした赦しは、誰が個人に与え得るのだろうか?すべてが個人主義の社会では、そうした赦しすら自己生成しなければならないのかもしれないし、それを「甘え」と呼んで忌避する人もいそうである。しかし誰かが赦さなければ、そうした魂は浮かばれないのでは無いか。では誰が赦すのか?

そんな器量も無いところの一人の人間が、「赦してください、こんな私に正しかったと声をかけてください」と空気を読むようクライアントから要請された時、どのように相対すれば良いのだろうか。



幸い自分は「自分の中の正しさ」の基準を変えられたけど。
吃音が軽度?だから?
吃音に軽度も重度も精神的には変わらんと思うけど、どうなのかな。

自分の正しさを形成するのは少年期だと思う。
だから、環境調整。
具体的には、吃音が出てる幼児期には吃音を軽減するリッカム等の。
小学校に上がって、吃音持ちになってしまった子供達には吃音の正確な知識と未来を見せる事、
テクニックとか声を出しやすい方法を提示する事。
そして一番大事なのは直接的な環境を吃音を理解する環境にすること。

槍玉にあげられる伊藤先生の「吃音には何もしないのがベスト」って崖から子供を蹴落とす方法で
這い上がらせる事で「強い個人」を生成するのが目的なんだろけど。

でもテクニックと言うか、登り易い道を知ってるなら、教えたほうがいいじゃない。
吃音持ちの大人は教えられるんじゃないかな?道を見つけるのは本人だとしても。
教える事で子供達が少しでも前向きになれるのなら自分の行動も変わるのではないかな?

変な話、必要に駆られて、20代の時に吃音を諦めるようになった。
もちろん、それまでに目の前のどもらない為の努力はしたと思うけど。
小学校での学芸会とか卒業式の在校生卒業生の言葉とか。


吃音持ちの子供達の環境調整、環境改善に取り組む事で、自分の吃音も軽減するのはないかと。
取り組むって「すがる」って訳してもいいけど。
アテにされる事で存在意義が芽生えて、「ま、しょうがないか」って日々過ごせるならいいじゃない。




ま。結局は自分の為にこういう事書いてるのかもだなぁって思うわけで。
遺伝しちまった自分の子供達への謝罪とは書いたけど。


上の子の姿勢で「全然役に立ってない」と反省反省反省で。
自分の子供を前向きにさせる事ができなくて、何かボランティアだって話なんだけど。
環境調整って「吃音に負けない精神力」をつけさせる事で、「どもっても許される環境」ではないよな。