吃音(どもり)ネタを貼ってくブログ

コミュニケーションは、話し手と聞き手、つまり「あなた」と「わたし」とで成り立っており、吃音はその障害です

吃音持ちの56歳の一例として

サラリン@吃音解放宣言がんばる @kitsutsukiman
さんに触発されて、2時間できたので徒然と。以前書いたこともあると思うけど。
吃音ネタを意識しつつ、人生振り返り

・昭和43年1968年生まれ、現在56歳サラリーマン。
・幼稚園で言葉が出ないと気付く
・親に聞いたが的を得ず(後日母が当時の吃音本?学校で指導?のセリフだったと判明)
・までも結構いい言葉かも「頭の回転に口が追いついていないから。大きくなったら治る」
・3歳4歳?保育園は中退(笑)、幼稚園(年長から)は喋らない子で過ごす
・正直保育園幼稚園の記憶はほぼない。吃音でからかわれたから喋らなくなったんだろなと想像。
・までも休みの日は近所の子とか、幼稚園で気にかけてくれた子と遊んでいたので悲しい思い出はない。
・小学校入る前に「普通の小学校か特別学校か選択するためのテスト」を母と一緒に旭川市内の小学校に行って
その時はスラスラと話せて(自分でも拍子抜け)無事普通の地元の小学校に
・小1小2では「◯◯言ってみて」等のからかいは結構あった気がする
・担任の膝の上で九九を言うのだけど時間内に言えず悔しい思いをしたような。何回かで合格したような。
・朗読の練習をするようになった。
小3から転機だった気がする。担任のトウモリ(漢字忘れた)先生のお陰だと思っていて。
班長になってみんなの前で話す機会が増えた
・クラス内で「頭がいい」ポジションになり、「カラカイ」はほぼ無くなった(イジりはあったかな)
・詩の朗読でめっちゃ褒められて「話すことで褒められる事もあるんだ」と驚いて、自信にもなった。
・学芸会のセリフで随伴を覚えたと言うか。引っかからないように、台詞が減るように頑張った。
・放課後は広場で近所の子と集まって(30人以上?)野球やってた
小5小6は「他の人とは違う」ポジションだったような
・自由研究、クラスメートの発表に逐一突っ込んでた(質問しないと周りから催促されるレベル)
・放送部に入って昼休み時間を仕事にして話す機会を減らした(中3まで継続)
・運動会も同様で放送ブースにいることで「吃り(&運動音痴)」からの回避に成功
・小6の時「クラスメートの家を回ろう」って宿題があって、放課後班単位で自転車で回ったのが相互理解に繋がったかも。
中学の過ごし方も小学校からの延長かな
・とはいえ「週末友達とお出かけ」ってあんまり無かったような。吃音ってより「お金が無かった」のが主原因。
・友人数人でバス乗って旭川駅前で映画みてミスドで昼食とか、お金もなくなるし注文も出来ずで散々な思い出。
・夏休み冬休みに学力テスト受けに旭川市内の会場にクラス仲間と移動は楽しかったような(やっぱお金無い)
・中2中3の頃って自宅でも全然話さなかったな。
高校はまったく新しい環境で
旭川高専の電気科に入りたいと宣言し内申点とか不正?に高くなり学校推薦基準の5点満点の4.2になったが
学校推薦は受けられず(他の科なら推薦もらえたけど友人が決まっていたし....)
旭川高専受験したが落ちました。で道立高校普通科に入学。
・始めての部活(夏休みで退部)、はじめてのイジメ(2名だけだけど・色々あって半年でイジメられなくなった)
・色々あってってのは高2だと思うけど、英語とか物理とかの授業を結構バックレて「変なヤツ」と思われたから。
・JPOPやテクノのオタクになり、ポジションを得る
・考えたら小学生からリビングにある親父のステレオやラジカセ買ってもらったりしてテープ編集に勤(いそ)しんでいたな。一人遊びだな今考えると。
・元部活仲間とかYMOとその周辺(立花ハジメさんとか)が好きな友人とか、多くはないけど放課後自宅に直帰ってあまり無い気がする。
・高校時代は自転車を駆使して友人達と早朝ボーリングだ映画だレコード鑑賞だ友人のバンド見にくとかそれなりにやっていた
・までも(小学校からだけど)夏休み冬休みはどこもでかけない日が多かった。そこまでの友達は作れなかった。
・高校の先輩の大学での話を聞いて大学進学に興味なくなる
・公務員試験を目指し、真面目に勉強。周りから「実は頭がいいんだね」と言われるようになる
・無事公務員試験受験-筆記試験合格-1次面接で盛大に吃るけど合格-最終面接-親に黙って辞退。落ちたことにしました。
・このまま公務員(郵便局員)になるのが勿体ないと思ったため。親には非常に落胆させてしまった。
・希望の専門学校に入学。情報測量工学科。江別市内で下宿生活。入学前に下宿のおばちゃんに「女遊びはほどほどに」と謎のアドバイスを受ける。
・この当時「コサキン」にハマっていて人生の支えでした。札幌イベントの帰りに寄ったから変なテンションだったと思う。
専門学校の2年間は濃密でした。
・最初のテストで学年1位になり、卒業まで無事キープできました。自信になった。
・「学年1位だったら最後列にさせてください」と言えた自分エライと今更ながら思う。
・ここで人生初「あだ名」をつけられる。それがsadakiti。ちなみにアイコン画像も当時の同級生が書いてくれたもの。いつも寝癖があるので茄子にみえるんだとか。
・入学した科は測量士補を卒業時取得と情報処理試験合格を目指す科で、入学時80人いたと思うだけど一緒に卒業したのは40人いなかったような....
・国家資格の測量士補取得できるので社会人も多く色んな人がいて視野広がった
・学年1位って事で「勉強を教えろ」ってヤンキー達が下宿に来るようになり教えるようになった。「勉強の方法がわからない」人と遭遇し視野が広がった。頭の回転はいい人だったのでめちゃめちゃ成績上がった。
・下宿で車持ってる人がいたので週末は半強制的にあちこち移動して青春を謳歌した。(日帰りで稚内・函館。根室の手前でガソリン無くなって10キロ位手押ししたり、二十間道路桜並木でチンピラに絡まれてボコボコにされて警察駆け込んだとかは良い思い出)
・下宿のおばちゃんに食べ物の好き嫌いを矯正されたのもいい経験だったと思う。
・「酒を飲むと吃らない」を発見し、積極的に飲むようになるが下戸なのでうまくいかず。
20歳で就職
・就職は専門学校内にある求人から選んで無事合格。一番給料高い会社だったので。札幌市内。
・その会社の情報システム科で卒業前の3月から勤務開始。
・基本は製図でして、測量データを取り出してCAMで図面書いて納品する仕事でした。
・アルバイトが全員北大の大学院生でその方達からC言語とか教わりました。
・大学の代返頼まれたりして北大に行くことがあり「大学行っとけばよかった」としみじみ後悔しました。
・アットホームな会社で土曜午後はほぼ強制で社長のおごりで焼き肉行ってました。
・酒が入ると上司から「もっと落ち着いてしゃべれ」と毎回言われてました。
・休日は高校&専門学校の友達と会うこともありましたが基本アパートにいるか、1人で近代美術館の野外のモビール眺めていました。カツ丼が美味しかったんですよね(食堂が当時一流ホテル経営でした)
親父が死んで人生観代わる
・22歳の時に会社が談合で指名停止になり、仕事が無くなり退職しました。
・退職時選択肢がありました。1-談合を回避するために買収した会社に就職。2-取引先の自治体4つから「職員になりませんか」の誘いを受ける。3-情報システムの部長課長2人で起業したのでその会社に入る
・結果フリーターになり1と3の仕事を掛け持ちする事になりました。当時の時給1000円は魅力的でした。
・「大阪弁だと喋れた」ので大阪の会社に応募し内定もらいました。
・しかし、親父が「ステルス胃がん」で旭川の病院、弟が「脳動脈瘤脳出血」で札幌の病院に入院する事になり大阪の会社には就職できませんでした。
・親父は入院から100日目で死亡。弟は親父が亡くなった翌月に退院。
・親父の葬式で挨拶を。普通に話すのは諦めて思い出し口調で乗り切る。泣いてくれた方もいて何とかなった。
・いつ死ぬかワカランのに、毎朝「今日も吃り直って無かった」のネガティブから始まる人生って勿体なくないかと思うようになった
・東京異動前提の会社に就職、半年後上京。
・上京直後は文通雑誌?で音楽で手紙のやりとりで実際会ったり、下北の芝居小屋とかよく行った。
・会社の寮が川越にあり(当時は実家より田舎な環境)、そこから会社がある代官山まで満員電車で通勤の日々。
・サッカー好きな同期がいて、2人で代表やJリーグの試合を見に行く。
・川越に住んでたから「浦和レッズ」を応援することにして、サポーターの集まりに行くようになる
門前仲町や大手町の会社に派遣になり、勤務時間も7:30~16:30と変則で堂々と平日の浦和レッズの試合に参戦。
・寮を出て蕨駅近くのアパート(住所は川口市)に
・94年本格的にサポーターグループに入り、全国REDSについていく日々が始まる。駒場のテント寝泊まり&出退勤
・試合前に浦和市内各所(駅前とか)でのビラ配りや試合前の観客へのお願い(主に国立競技場)をする事になり、吃りながら話すうちに吃らないコツ&吃っても凹まないメンタルを獲得する
・獲得と言うか自己肯定力が上がった。数年掛かったけどね。周りは一流企業な皆さんの中で同様に扱われたり、運営の方をするようになったからだと思う。
・自己肯定力が上がったから「吃ってもまぁ何とかなる」と思えるようになったと思う。
・までもJリーグ無い期間は1人でいる事が多かった。自転車でアキバまで行ってCDショップ回ったり、中野武蔵野ホールで映画見たり。サブカルですね。
中野武蔵野ホール近くの小料理屋で梅酒美味しいと知る。会話が楽しくて結構通ったような。
Uターン・結婚
・99年、弟が再び脳出血で倒れて(菊池先生と同じヤツ)親戚にも説得され北海道のUターン制度を利用して実家に戻りました。31歳だったかな。
・吃音はあったけどそんなに困った感じはなく。出ないように意識はしていたけど。
・コンサのCVSを3年間、2002W杯のボランティアも経験させていただき、サッカーが縁で奥さんと知り合い、結婚。
・子供授かった時「吃音遺伝するかも」と伝えるも理解していなかったと思う
・長女に吃音が出て、恐怖
・次女が長女の吃音を真似て「やめなさい」と大声を出す
・幼稚園から自治体の「ことばの教室」を勧められ長女が通うことに
・幼稚園から小学校に吃音の事申し送り
・長女小2の時に吃音が原因でイジメ(というか加害者のストレス解消)られネットで北海道言友会を知り相談
・以後、俺は北海道言友会に定期的に通うことに
・小学校の先生の働きかけで小学校に「ことばの教室」誕生
・だが長女は拒否。でも半年後通うようになる
・次女は入学から「ことばの教室」利用
・旧twitter書いてくうちに声かけられて色々と。
・北海道言友会の活動で有給とか中抜けとか増えるたので職場にカミングアウト→面接時に気づいたけど社長の決断で採用と教えてもらう
・職場では電話での通販の受注は免除してもらっている。が、それ以外のクレーム対応とかはやってます。敬語できないけどいまのとこ問題発生してない。
・今は自分の吃音に関しては困ってるけど困っていない。娘達の吃音に対してが心配だけど、両名友達も多いし何とかなるんじゃないのかなと。